いつもの場所のその先で

オタクだけど、毎日をすこやかに過ごしたいんです。

The Music Never Endsとは、きっとこういうこと

嵐が更新されない月日がまるっと3ヶ月ほど過ぎた。

活動休止が発表されたときのわたしはそれほどその決断に悲しさとか虚無感みたいなものがなくただただ納得していたし、2020年の年末に近づくと(嵐がそうしてくれていたから)お祭り気分みたいなもののほうが強かった。年が明けてからも彼らの幸せを願う日々が続くことには変わりがなく、各個人がお仕事しているテレビを見ては今までと同じように笑い、新しい仕事が決まればこれまで通り喜んだ。

なんだ、何も変わらないじゃんね。

そう思う一方で、嵐の音楽を聞く気分にはどうしてもなれなかった。大晦日の気持ちをフリーズドライするかのごとく、あのときの高揚感や切なさ、いよいよ感じた寂しさみたいなものを忘れたくなかったから。合わせて、単純に気分じゃなかったから。なんとなく、寂しい気持ちになってしまいそうな気がしていた。

そうしている間にも時間は過ぎ、日々を営んでいく中でどうにもこうにも不調が続いていた。正確には体も気持ちも調子がすこぶる悪いというよりも、なんとなく日々が凝り固まっていて張りがなくやる気が出ない。どうしたものかと考えているときに、ふと頭の中で嵐の音楽がなり始めた。ああ、これは本物を聞きたいなあ。自分の無自覚なところがそう訴えかけているんだろうと悟り、2ヶ月弱の時を経てようやく嵐の曲が聞きたいと思う自分を認識した。

いつものアプリから嵐の音楽を選択する。耳から伝わるのは、いつもの5人の歌声、ユニゾン、時折ハモリ。あ〜〜〜〜〜〜〜〜これだよ、これ……。感じたのはまるで疲れ切った体を温泉に預けたときのような安心感。忘れていた。わたしはこれまで、20年の月日をこうして嵐の曲とともに生きてきていたことを。ずっとこれまであったものがなくなるとそりゃ調子も狂うよな、と曲を聞いてようやく自覚することができた。

それからというもの、散歩をするときには嵐を聞くようになった。特別意識してというよりも、2021年がやってくる前と同じように音楽アプリから嵐を選択するようになっただけ。それでも、たまに無性にどうしても嵐が更新されない事実を突きつけられている気がして勝手に寂しくなる。

夜会でカラオケで自分たちの曲を歌うかというトークテーマで翔さんが「歌えない。大野のパートだから」と言っていた翌日に『Believe』を聞いたときは、「歌えないとか言うんじゃねえ、あんたのラップちょうかっこいいし、かっこつけてラップ部分歌っているところみたいんじゃ〜〜〜〜!!!」と強く思ったし、ネメシス第二話でフリースタイルしていたときには「ショウサクライのリリックが聞きたいなーーー!!!」と思った。思っただけだけど。

 

「寂しかったら嵐の音楽を聞いてください。俺も聞きます」

あの日、2020年が終わる手前で潤くんが言っていた言葉を思い出す。わたしは全然寂しくなくて、活動休止にも納得していて、2021年から嵐が更新されないことを理解していたはずだけど、これまでどおりに2021年が4ヶ月経とうとしている今も嵐を聞かないと調子狂うみたいだし、嵐に救われているし、嵐を求めてしまっている。これまでの20年以上の時間と同じように。

 

だから、嵐が更新されなくてもきっと明日もわたしは嵐を聞く。大晦日の思いがたとえ更新されたとしても、それが多分生きるってことでしょう? ……少し大げさかもしれないけれど。

 

 

休止前に嵐の音楽をストリーミングサービスに放ってくれて本当にありがとう。今日もわたしも、わたし以外のだれかも、きっと嵐に救われている。