いつもの場所のその先で

オタクだけど、毎日をすこやかに過ごしたいんです。

たとえ、次の推しが見つからなくても

恋はするものじゃなく、落ちるものだ。

岡田先輩が主演して潤くんが出演した映画『東京タワー』のキャッチコピー。これを見たときの高校生のわたしは「はー、なるほどなあ」とぼんやりと感心していた。言いたいことは理解しつつも、そういうものなんだろうなという空想しかできなかったのは恋に「落ちた」経験がなかったからだと思う。

あれから15年以上のときが過ぎた。そしてわたしは思う。

推しは見つけるものじゃなく、落ちるもの、だと。

嵐が活動休止を発表してから、周りのオタクのみなさんが次の推しを探していたのを肌感覚ながら感じていた。次の推しを見つけないと日々の楽しみをどう見つけたらいいのかわからない、という気持ちはわかるし、なんならわたしだってゆるくは探していたけれど、結局2021年が4ヶ月過ぎようとしている今も次の推しを見つけられずにいる。

わたしが嵐の沼に落ちたのは中学2年の春のこと。どうしてハマったのかとかハマり続けているのかなんていうことは、今となってはうまく説明ができないけれど、今よりも世界のあらゆるものが新鮮で、新しい発見が溢れている感受性が豊かだった10代の感性でズブズブとハマってしまった沼と同じようにハマれる沼を30代の今になって探すほうが困難なんだろうなとは感じている。テレビから流れてくるコンテンツの中には幼い頃どこかで見聞きしたもののような気がすることも増えたし、流行りのものを知っても自分より若い世代が盛り上がっているのを見るとすっと引いて見守る姿勢に入ってしまうようにもなった。

この20年で過ごしてきたような熱狂とか夢中とか、もっと詳しく言うと、どうにかチケットが欲しくて掲示板に張り付いたりとか、当落を知るために深夜や早朝にコンサート事務局に何度も電話したりだとか、スケジュール帳に推しの番組を書いて絶対帰ってリアタイすると強く決意するとか、そういう沼はこの先見つからないのかもしれない。それを少し寂しくは思う。でも年齢を重ねるというのはそういうことなのかもしれないし、その中でも心が揺さぶられるようなことはきっとある。でも、中学2年のときに見つけたものと同じような深さの沼は見つけられないと覚悟もしている。

まあ、こんなふうに書いているけど、書いているうちに正直次の推しも沼も見つからなくてもいいかなと思えてきた。10代のときと同じような瑞々しい恋愛と大人になってからのそれが違うように、違う形の沼に出会えるかもしれない。それに、この20年の月日が嘘になったわけじゃない。

そして何より、嵐が休んでも推しである翔さんは休んではいない。むしろめちゃくちゃ働いている。それに他のメンバーもお仕事しているから定期的に見れるし、共演もちょいちょいしている。智くんもきっとゆっくり休んでいるから、今お仕事を休んでいる身のわたしはいっしょに休んでいる気分になっているのでそれはそれで同志感がある。5人がわちゃわちゃしてなかったり歌やダンスが見られなかったりする寂しさはあるけれど、無理に推しを作るほど寂しくなんかない。

いつか新しい推しに出会って、沼に落ちる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。やっぱり正直それはどちらでもいいや。

だから、無理に推しを探さなきゃと焦ることはせずに、今まで通りに毎日を営んでいこうと思う。

たとえ、次の推しが見つからなくても。