いつもの場所のその先で

オタクだけど、毎日をすこやかに過ごしたいんです。

囚われた気持ちの解き方が、わからないままだけど

この前、雨が降った。ふと『雨のmelody』を口ずさんだあの日から、わたしにまた囚われの毎日が訪れる。

そんな毎日を、ここでは「KAT-TUNどうして期」と、でも呼ぼうか。
どうして3人になってしまったんだろう、とひとり考えを巡らせる、そんな期間。たまにそんな時間がやってくるのだ。

今回のこれが訪れたきっかけは、雨の日のあの歌。たまたま検索して出てきた動画で、KAT-TUNが踊っていたのだ。4人で。

あらかじめ伝えておくと、わたしはここで「信じた君がついた嘘*1」についてとか、そういうことを書こうとしているわけじゃない。考えているのは、まあ確かにそういうことだけど、そんなの当人たちだけがわかっていればいい。明確な理由が見えないんだし、わたしの中で答えなんかきっと出ないんだろう。だから今日ここで言いたいのはそういうことじゃない。気持ちは適切な時に、適切に処理しておかないと、思いっきり引きずるっていう話だ。

話を戻すと、踊っていたKAT-TUNが4人だったことをきっかけに「どうしてだよ〜〜〜」と今さらぐるぐると答えの出ない問いの渦に引き込まれている。わたしは「ハイフンです」と表立っては言えないけど、お茶の間からはそこそこ応援していたし、Y&Jにも入っていたからそこそこコンサートにもお邪魔している。だからなんだって話だけど、そこそこ思い入れがあるのだ。でも、その「そこそこ」という程度が実に厄介なもので、「そこそこ」だから、大声で「どうして」と言うこともできずに、胸にこっそりしまっていた。だから、時折「どうして」が暴れだす。

イメージとしては、味噌の仕込みだろうか。ちゃんと適切に処理を行っていればそのうちおいしい味噌になるのに、「そこそこ」の処理をしていたことで味噌の発酵がうまくされなかった。そんな感じ。さらに厄介なもので、それは5人になるときにも4人になるときも3人になるときも、同じように放って「そこそこの処理」を継ぎ足していたので、どう対処したら味噌になるのか自分でもわからない。実に厄介。

(単にわたしが引きづりやすい性格なせいもあるけど。)

そんな日を何日か過ごしていて、ようやく気づいた。悲しいときは「悲しい」って思い切り落ち込んでいいんじゃないかと。どこかで思いっきり悲しめばよかった。世間体とか気にしてかっこつけた末に自分の中で苦しむなら、悲しいときはちゃんと悲しいって、見て見ぬ振りはしないで悲しめばよかった。ぐるぐるの渦の中で、そんなことを思っています。*2

だから失恋したときもちゃんと悲しんで立ち直るって大事なんだろうな。そして思いを昇華して、次の恋を始める。そんな歌があったな。「何気ない日々のこと、笑ってまた話せるように」って。*3 ちょっと違うか。

4人の姿は、こころにしまっておくことにしよう。モノや形にできない姿で。*4


こういうのがよくないんだろうな、引きずるパターンのやつ。

とはいえ正直言うと、一番の昇華方法は3人で元気にかっこいい新曲を歌っているのを見て「ああ大丈夫だ」って思えることなんだろうな。自分の気持ちの整理をしつつ、3人の帰りを、田口くんの活躍を待つことにします。

 

※10ksを見に行ったときの感想は以下です。(オブラートに包みまくってる感ある。)

jasmine-cd.hatenablog.com

 

*1:『ハルカナ約束』より。

*2:もちろん最低限の配慮はいると思うけど、その範疇でっていう話です。

*3:『春夏秋冬』です。KAT-TUN

*4:雨のmelody』の歌詞を少しもじりました。